こんにちは。
最近は、ブログを毎日かけていませんでした。
悩み事も忘れて静岡を満喫してきたからです。
今日は、帰ってきて大学のとある試験のお手伝いに行っていました。
その間、ふと地面が傾いて倒れそうになることが数回あって、きっと貧血だと思いました。
こういうことは初めてだったので、相当疲れているのだと思います。
たまに、突然倒れる人っていますが、こういう状態なのだなと理解しました。
静岡では、かなりハードな階段を上ったり下りたりして観光したので、それが原因です。
あと、睡眠時間が毎日4時間だったのも良くなかったです。
昨日静岡から帰ってきて、一旦おばあちゃんたちと夜ご飯を食べに行ってから、下宿に帰ってきました。
で、下宿の最寄りのバス停で降りようとしたときに、鍵を旅行前に実家に置きっぱなしにしていることに気が付いたんです。
つまり、鍵がなくて家に入れない。
親に電話して、車で鍵を持ってきてもらいました。
片道1時間以上の距離ですので、優しい親です。
私は親や祖母祖父にとても大切にされていることを、つくづく下宿してから感じます。
こんなに愛情をくれる人は、他にはいません。
(でも、うっとおしくはあるので、このくらいの適度な距離感がちょうど良いと思います。)
最近、本当に私は愛に飢えています。
自覚しました。
毎週実家に帰って愛をもらって精神を復活させています。
友達と仲良くして、復活できればいいんですが、仲の良い友達は一人しかいなくて、毎週会う訳にもいきませんし。
推しを作ればいいんですが、他人のことに気を配れるだけの余裕が今はないです。
推しのことを考える余裕がないんです。
まずは、自分の就活、実験のことを考えないといけないのに、推しの行動を追う余裕なんてあるはずもありません。
自分の行動の予定を立てるのでいっぱいです。
今日のブログもネガティブですみません。
とにかく、私は愛がほしいんだと思います。
(でも、いくら愛をもらっても、きっとそれだけでは満足できないんです。)
実家にいたときは、自分が愛に飢えているなんてこと、考えてもみませんでした。
でも、その頃も、確かに愛に飢えていたんです。
だから、彼氏のことで、ぐだぐだ悩んでいたんです。(今も)
愛がほしいというのは、「人に対する要求」です。
自分の軸があれば、「人に対する要求」を持たなくても生きていけるんかもしれません。
将来は○○で働いて、○○をして社会貢献したいとか、そういう軸があれば。
でも、どうして社会貢献したいのか、とは、それは、人から感謝されたいからですよね。
「人が喜ばせられる自分はすごい!自分には生きる価値がある」ということを感じて安心したいというのが、社会貢献したい人の真の動機だと私は思っています。
だから、社会貢献したい人も、「自分の価値を認めてほしい」という「人に対する要求」が心にあるんだと思います。
自分の価値を感じたい、これは愛に飢えている人の動機でもあります。
「自分は愛を与えてもらえるほど価値のある人間だから生きている価値がある」ということを感じて安心したいんです。
私の下手な文章で伝わっていますか?
皆さんはこういう哲学?的なことを考えたことはあるんでしょうか。
誰からも大切にされなかったら、自分は生きている価値がない人間なんだ、と思って死にたくなるのかもしれません。
自分は生きていても良い人間なんだ!ということを、人と関わることなく自分のみで感じられたら、大体の悩みはなくなるんじゃないかなと思います。
私の、人生に対する考え方の一つに、「人生に意味はない」というものがあります。
「人生はただの時間つぶし」なんだと思います。
だって、私がもし生まれていなかったとしても、社会は何も問題なく進んでいくからです。
だから、生きている価値があるとか、ないとか、そんなのは考えなくて良いんです。
だけど、生きている側は考えてしまうんです。